満開だったソメイヨシノは早くも散り出していますが、そこかしこに様々な花が咲き、木々の枝には新緑が吹き出し、明るく美しい季節です。けれども、この春たけなわの時期に、ふっと感傷的な気分になるときがあります。寂しいというか、虚しいというか…。やっと暖かくなり晴れやかで明るい気分になってきたのに、ふっと心の中に沸き起こる憂鬱な気分、モヤモヤはいったいなんなのでしょう。

このモヤモヤは、春愁(しゅんしゅう)と言うのだそうです。俳句でも春を表す季語となっています。手元の歳時記(ホトトギス新歳時記 改訂版・稲畑汀子編・三省堂)によると、

春になると木々が芽吹き、うきうきと華やいだ気分になる反面、何となくもの憂い感じにもなるのをいう”

と書かれていますが、季語として歳時記に載っているということは、春に誰もが感じる気分ということなのでしょう。

玉川をみにゆくことも春うれひ              久保田万太郎

春愁の渡れば長き葛西橋(かさいばし)          結城昌治

句の会の先生のご説明では、「春のそこはかとない哀愁。物憂い気分を言う。ドカーンと落ち込むのではなく、軽いアンニュイな気分。」とのこと。重苦しい憂鬱な気分になるのではなくて、ちょっとだけ気持が沈むような感じですかね。

              卵白を泡立ててゐる春愁ひ(うれい)              真理子

キッチンの窓から入ってくる明るい日射しを受けながら、メレンゲ作りをしていた時のこと。卵白を泡立てようと、角がたつまで泡立て器でかき回しているうちに、なぜだか、ふっと感傷的な気分になってしまったのです。ちょっとため息ついたりして…。なんともつかみどころのない感情に、少し心がざわめきます。

春という晴れやかで清々しい季節でありながら、突然に物思いするこの感情は、いったいどうして生まれるのでしょうかねぇ。春は、天候は不安定ですし、生活環境も変化する時期。落ち着かない環境の中で、誰しも知らず知らず考え事をしてしまうってことでしょうか。

ところで大澤水牛さんの水牛歳時記の春愁の解説の最後に、以下のような記載を見つけました。

春愁は第二次大戦後に定着した新季語の秋思と共に、現代俳句ではとても人気のある季語である。(省略)もの思いにふけるということは、半面恵まれた世の中に生きているということでもある。戦乱の巷ではもの思いにふける余裕などはとても生れない。こういう季語が好まれる今という時代は、いろいろ不満もあるけれど、まあまあ可とすべき時代なのであろうか。」

なるほど。「なんとなく物憂い気分になる」ってことは、何はともあれ世の中が平穏で無事に過ごせている証なのか。春愁よ、続いておくれ。

M.