5月になって緑が生い茂り夏の気配を感じるようになりました。夏の兆しが見え始めるこの時期を、暦では、立夏といいます。夏の始まりです。
先だって(5月の中頃)、北関東に住んでいる友人が散歩中に撮った写真を送ってくれました。山の公園からでしょうか、木々の間から浅間山を捉えた写真。美しい。そして「まだ山桜が咲いています」と、細い枝に咲く山桜のアップ。可愛いなぁ。こんな時期に桜の花なんて…。あ、そうか、これが余花(よか)だ。
俳句の初夏(5月)の季語に余花という言葉があります。
余花 〔よか、よくわ〕
山深い所などに、夏に入ってなお咲き残っている桜をいう。若葉の中に見る花には捨て難い趣がある。「残花」といえば散り残った桜のことで春季である。(ホトトギス新歳時記(三省堂)による)
この季語を知ったとき、季節外れに咲く桜。名残りを惜しむという感じがして、どことなく寂しさがつきまとう気がしてなりませんでした。咲き遅れ、やがては散ってしまうという悲壮感しか浮かびませんでした。
寂しさが、この季語の本意なのでしょうか。寂しさを詠んだ句が多いです。
余花にしてなほ散りつげるあはれかな 高浜年尾
書き暮れてしみじみひとり余花の雨 岡本眸
余花といふ消えゆくものを山の端に 大串章
でも感傷的な句ばかりではありません。高浜虚子は、「こんな時期にこんなところでまた会えるとは」と、余花に出会った喜びを詠んでいます。
余花に逢ふ再び逢ひし人のごと 高浜虚子
中村汀女は、「任された台所仕事は早目に切り上げ雨に落ちなんとする遅咲きの桜を楽しもう」と、詠んでいます。
あづかりし厨は早目余花の雨 中村汀女
初夏になって若葉の中に咲いている桜の花。高い山や寒い地域でなければ見かけることができません。友人が送ってくれた山桜は、細い枝に寄り添うように三輪ほどひっそりと。花のそばには柔らかな葉がゆらりと揺れています。咲き誇っているという様子でもなく、咲き遅れた寂しさもありません。むしろ涼しげですがすがしい。夏がそこまで来ているよ、と伝えてくれているよう。
余花、なんだかとっても好きな季語になってしまいました。
名残を惜しむのではなくて、もうすぐ夏が来る季節の移ろいに心を寄せるような句を詠みたいなぁ。