2020年9月19日、このコロナ禍の中、かなり以前に妻が予約していた京都行きを決行。新横浜から早朝の新幹線に乗り2時間ほどで京都駅に到着。駅からバスに乗り伏見稲荷へ。それから清水寺(改修工事中!)。さらに八坂神社、南禅寺、銀閣寺とめぐり歩き(銀閣寺はいいなぁ)、初日は「京小宿室町ゆとね」に宿泊。檜の香りのする部屋風呂でリフレッシュすることができた。料理も美味しく、細かいところまでサービスが行き届いた小さくて居心地の良い旅館だった。
翌日は、朝早めの時間に宿を出てタクシーで建仁寺へ。一般客向けの開館前の早朝特別拝観プランに申し込んでいたから。ここは日本最古の禅寺で、本殿の天井に描かれた巨大な「双龍図」には圧倒された。
「風神雷神図」も見た。実物は京都市の施設に厳重に保管されているそうだ。そういえば、箱根の岡田美術館の足湯の前に巨大な風神雷神図の複製がある。あの迫力はすごい。
京都は見どころがごまんとある場所だけれど、この旅で私は数年前に読んだ白洲正子の『明恵上人』というエッセイにあった三尾の山にある高山寺・西明寺・神護寺を訪れるのを楽しみにしていた。できればこのエッセイに書かれている周山街道の旧道を歩いてみたかったけれど、かなりの距離を歩くことになり、妻の膝も気になるし、ということで諦めてバスを使うことにした。
京都はバスの町だ。路線が複雑で目的地に行くバスをなかなか見つけることができず、かなり時間をロスしてしまった。ようやく見つけたバスに乗り、一路、三尾の山へ。途中、龍安寺や平安神宮の前を通ったので、予定にはなかったが、帰りに寄ってみようと思った。しばらく町中を走っていたが、次第に上り坂になり右に左にと揺られだした。車窓から見える木々が皆まっすぐに伸びている ― ああこれが北山杉か、とエッセイに書かれていたことを思い出した。バスに乗ってから90分ほどで目的地の高山寺の近くのバス停に着いた。午後1時過ぎだった。
※ 三尾 = 神護寺のある高雄(たかお)、西明寺のある槇尾(まきのお)、そして高山寺のある栂尾(とがのお)の総称。これらの3つの山の名前の末尾の音が「お」であることから3つのお(尾)、「三尾」と言われている。
バス停の近くに食堂があったのでひとまず昼食を済まそうということに。というか、ここまで来てしまったらココしか選択肢はない。味のほどは… (田中角栄風に)まあその~ ふつうです(^^)
高山寺には「石水院」という国宝に指定されている建物があり、この寺を開山した明恵上人の「樹上座禅像」や「鳥獣人物戯画」を見ることができる。食堂のすぐ近くにある裏参道から寺まで歩いた。近年はここから寺に入る観光客が多いそうだ。
高山寺の奥のほうにある金堂に行ってみると、昨年 (2019年) の台風の傷跡がまだ残っていた。木々がなぎ倒された後が整地され、三方が山の木々に囲まれた広い空き地にいくつもの切り株が残っていて、なにやら寂しい雰囲気だった。
続いて、槇尾の西明寺へ。
高山寺や神護寺に比べると小ぶりの閑静なお寺で、緑の鮮やかさが印象的だった。何故か子供の頃に自宅の目と鼻の先にあった八幡様の境内の静謐な雰囲気を思い出した。秋の紅葉はさぞ美しいだろうなぁ。
この日の予定はこれで終わり。宿泊する「もみぢ家本館」に向かった。夜は旅館から少し離れた川を見下ろす川床と呼ばれる食事処に移動して夕食をとった。
夕食が始まってしばらくすると、二人の舞妓さんが現れて舞を見せてくれた。舞の前にいくつかの仕草の意味を教えてくれた。舞が終わると、舞妓さんらは泊り客の各席に2~3分ほどづつだが挨拶に回りはじめた。もちろん私達の席にもきてくれて、かわいらしい京言葉を聞かせてくれた。
翌日はまず神護寺へ。朝食を済ませて玄関を出たところで宿の人が、神護寺に正面から入るには長い長い石段を登らなければならないので、車で別道を通って入り口近くまで送りましょうかと言うので、その好意に甘えることにした。帰りにはその坂道の石段を下ったが、たしかに400段と言われるこの坂を登るのは年寄りにはたいへんそうだ。
石段の下から桜門を写真に撮ろうと楽しみにしていたのだが、ご覧のとおりの「工事中」でがっかり。この旅行では、清水寺や金閣寺も改修工事中で残念だった。
ところで、明恵は、幼くして両親を亡くした後、9歳のときに母方の叔父の上覚がいた神護寺に預けられ、僧侶になるべく修行を始めた。昨日訪れた建仁寺を開山した臨済宗の開祖・栄西は同時代の先輩だが、明恵を深く信頼していて、自分の後継者にと請うたが、事情があるとして固辞したという。明恵の宗旨は華厳宗だが、実際の行は禅宗のそれそのものだったと言われている。一方、明恵が最初に学んだ華厳経は釈迦の悟りをそのまま記したものだそうで、そのせいなのか釈迦への思慕がとても強く、2度もインド行きを試みている(いずれも失敗)。
明恵は当時から名僧として知られていたが、どんな経緯か分からないが、19歳から60歳で没する一年ほど前まで自分が見た夢の内容を書き綴った「夢記(ゆめのき)」という貴重な書物を残している。自分の見た夢をこれほど長期間にわたって書き続けたというのは驚きを超越している。
ユングの研究で知られる心理学者の河合隼雄は、昭和40年代にある座談会のあと湯川秀樹と梅原猛から明恵の「夢記」を読めと勧められたという。当時は仏教にまったくの無関心だったので、しばらく放置していたそうだが、あることが契機となり読むことになった。そして深く感動し、「とうとう日本人の師を見出した、と強い確信を得た」という。そしてその強い思いが『明恵 夢を生きる』という本の上梓につながった。私は2015年に白洲正子の「明恵上人」を読んだのだが、その「あとがき」を河合隼雄が書いていた。この旅行の少し前に、まだ読んでいなかったこの本を入手し少しづつ読み続けている。
明恵はこんな言葉を残している。これは末法の世と言われていたあの時代に法然のある書物の中に念仏さえ唱えれば他のものは何もいらない、「菩提心」でさえなくてもよいという趣旨の記述があり、これに明恵は猛反発していたことから出た言葉のようだ。菩提心とは、正しい悟りを求める心を意味している。目的の場所に到達する道は様々あるが、菩提心のみが唯一の道に通じている、それが釈迦の云うことだと。
― 我は後世たすからんと云うものにあらず。ただ現世にまずあるべきやうにあらんと云ふものなり。
閑話休題
神護寺の敷地の端のほうに地蔵院という小さな建物があり、その一角が広場になっていて栂尾(とがのお)の雄大な山々を望める。小さな休憩所で厄除けの「かわらけ投げ」に使う土器の小皿が売られている。2個300円。わたしたちも購入して、崖下に向かって投げた。
地蔵院でかわらけ投げをした後の帰り道、参道への道を歩いているとき、小さな蛇が右の藪の中から現れて私達の目の前を通り過ぎ、左の草むらにスルスルと移動していったのでびっくり。妻と二人で写真に撮ったり、まだそこにいるぞなどと、しばしの騒動であった。蛇に出会うのは縁起がよい、と妻は喜んでいた。
長い石段を降りて神護寺に別れを告げ、バスに乗って仁和寺に向かった。しばらく揺られていたところ、妻が行き先が違うかも、と言い出し、道路が分かれる手前のバス停であたふたと降り、そこから歩くことに。10数分ほどで仁和寺に到着した。ツアーじゃない旅行はたのしいですね!
(バスを降りてしばらく歩いていると、この雑文の英訳を担当してくれているKBさんからスマホに電話が入った―業務連絡!)
旅はまだしばらく続くが、ここまでにしておこう。◆