今回は、死ぬまでにどうしても書いておきたい卓球のお話しです。

※ 3月13日に、国際卓球連盟(ITTF)が、4月末まで予定されていた国際大会の中止を発表した。色々な意味で心配な日々が続きますね。

* 冒頭のアイキャッチ画像をスマホの画面で見ると、右下が筆者、その後ろに、以下に紹介する新一年生新入部員の5人目、4人目、3人目、2人目、そして1人目が並んでいる。

近頃、卓球が大いに注目されている。男子も先日の全日本で勢いのある高校生が出てきて面白くなってきたが、やはり女子の活躍が素晴らしい。

伊藤美誠の強さはホンモノで、彼女には周りが何もしなくても強くなれる、そんな素質を感じさせられる。だが、時々、技をかけすぎることが気になっている。逆フリック気味にボールに回転をかけて相手のミスをさそう、あれだ。こうした小細工を使う必要がないほど、今の伊藤のレベルは上がってきているのに、それを使いたがる。有効に働くことも多い。でも、先日のカタール・オープンでの決勝で陳夢と戦ったとき、少し劣勢の局面でこの技を使っていたが、うまくいかなかった。さすがの伊藤でも、トップクラスとの試合で精神的に圧力を受けているときには、微妙に精度が落ちるのだ。伊藤は今のまますべての動きの精度をもう半歩ほど高めれば、正攻法で世界チャンピオンになれる可能性が大いにあると思う。

ところで、私が一番応援しているのは、平野美宇だ。彼女は、2017年に豹変した。おそらくコーチのおかげだと思うが、戦型をガラリと変え、突然、圧倒的な強さを示すようになった。1月の全日本で史上最年少の16歳で優勝し、同年4月にはワールドツアーアジア大会で中国のトップクラスの3人 (2人は世界ランク1位、2位)を続けざまに打ち破り、アジア大会の最年少チャンピオンになって世界中をあっと言わせた。

しかし、その後、中国勢にとことん研究され、光が失われてしまった。マスコミにも大きく取り上げられて精神的にとても苦しい経験もしてきたようだが、長いスランプから徐々に復活してきて、今は豹変した当時に近いところまで戻ってきている。あとニ歩くらい足りないだろうか。サーブは随分と良くなってきたので、できればもうひとつふたつ戦略的に使えるサーブをもつこと。そして、動きの中に「柔らかさ」を取り入れること。これができるかどうかが鍵ではないかと見ている。もうわずかな時間しかないが、オリンピックまでにこれらの課題をクリアできれば、日本は伊藤+平野の二枚看板で東京オリンピックで優勝してもおかしくない。

しかし今はオリンピックの開催も危ぶまれているし、間に合わなくても、まだまだ若い。もう一度、あの圧倒的な姿を見たい。がんばれー。

さて本題に入ろう。

私は、中学校・高校と6年間、東京郊外にある中高一貫校の男子校で寮生活を送った。中学1年のとき卓球部に入った。しかしあることがあって一学期でやめ、2学期からは野球部に。しばらくやって、自分にはどうもチーム競技は合わないなと思い、これも止めた。次に入ったのは音楽部で、トランペットをやった。放課後、音楽棟から聞こえてくる高校生の吹くトランペットのきれいな音がずっと気になっていたのだ。その高校生の手ほどきを受けてそこそこ吹けるようになっていったが、やっぱり卓球をやりたい気持ちが抑えられなくなり、中学3年になって卓球部に戻った。それからは高校卒業まで続けた。

高校2年になるときに一学年先輩の卓球部の部長から、「俺はもう受験があるのでやめる。諸田、おまえ部長をやってくれないか」と言われ、引き受けるはめになった。

ところで、当時、学校の敷地の外れには、受験に失敗した浪人生が住むことができる「蛍雪寮」という施設があった。そこに藤井という卓球部の先輩が住んでいた。2年先輩にあたり、愛媛県松山市の出身。彼は、放課後、卓球部の練習が始まるとよく見学にきていた。

翌年、藤井氏はまた受験に失敗してしまい、螢雪寮にそのまま居続け、放課後も相変わらず卓球場に姿をみせていた。卓球部の部長をやっていたこともあって、藤井氏とはよく話す機会があった。そうこうしているうちに一年が過ぎて、私も藤井氏もめでたく大学が決まった。

どういうきっかけでそういうことになったのか、実はよく覚えていないのだが、二人共もちろん卓球が好きで(腕のほうは五分五分というところ)、実は教えるのも好きだった。当初は軽い感じで卓球部のOBとして後輩の面倒をみようか、といったことだったのかもしれない。新生活が落ち着いてくるにつれ、頻繁に母校の卓球場に通い始めることになる。

藤井氏は、西武新宿線の野方駅の近くにある学生会館を住処にした。私の実家から母校までだと2時間ほどかかるのだが、野方からなら西武新宿線1本(駅からはバスで10分ほど)で母校にいけるので時間が節約できる。そんなこともあって、学生会館の藤井氏の部屋(たしか4人部屋だった)の空いているベッドに泊まらせてもらうことが増えていった。しばらくすると、ほとんどそこの住人のようになっていた。

一年目のクリスマスあたりだった。学生会館に入居している全大学の学生有志が参加する卓球大会が開催され、私も藤井氏の大学の青木という学生を騙って(笑)藤井氏とダブルスを組んで出場し、優勝した。相手はみなシロートなので、ちょっとしたプレーで「オーッ」と感嘆の声が出て気持ちがよかった (^^)。シングルスにも出場し、決勝戦は青木と藤井氏の対決となった。「やっぱり藤井と青木かぁ、面白そうだな」などと言われているのが聞こえた。試合は熱戦になり、何度も打ち合いが続くと、歓声があがり、なかなかの盛り上がりだった。優勝は「青木」だった。

大会役員から賞状に名前を入れるので下の名前を教えてください、と言われ、(下の名など知らなかったので)一瞬戸惑って「はい?」っと聞き返すと、すかさず横から藤井氏が〇〇です、と答えてくれた。役員が、なんでアナタが答えるの、といぶかしそうな顔をしていたのを覚えている (^_^;)

5人の新一年生

私達が大学に進学した年、中学卓球部に初々しい5人の新一年生の新入部員が入ってきた。

1人目は、大阪出身でとても身体が小さく、卓球台から頭がやっと出る程度、は言い過ぎだが、それほど小さかった。シェークハンドを使うことになったのだが、ラケットが異様に大きく感じられた。しかし、この子は2年生の夏に突如「豹変」することになる(背ではない)。

2人目は、他の4人よりも、少し後になって入部してきた子で、最初の子よりも少し背はあったが、やはりまだ小学生の体つきだった。しかしとても負けず嫌いの気の強そうな子だった。シェークハンドを選び、カットマンをやりたいということだったが、見ていると攻撃のほうが好きそうで、かつ上手なので、途中で攻撃型になった。福岡県北九州市の出身。

3人目は、福岡県太宰府の出身の子だ。体格は標準サイズだったが運動神経がよく、性格が明るくて利発そう。男だけの5人兄弟の末っ子。みんなに可愛がられてすくすくと育ってきた、という感じがした。後に中学卓球部の部長になる。ペンホルダー。当初からフットワークなど動きがよく、強烈なドライブを打つ。このチームのエースの一人。

4人目は、初めての挨拶のとき、京都弁ということもあるのか、なよなよしい話し方をしていたちょっと太めの子。末っ子で上に3人の姉がいるという。大丈夫かなぁ、と思ったのだが、中3のとき、とても大事なところで大きな仕事を成し遂げてくれた。芯は強いのだ。表ソフト(つぶつぶのやつです)のペンホルダー。

そして最後の5人目は、栃木県宇都宮市の出身で、平均よりも背が高く運動神経も抜群。卓球は初めてだというのに、とてもそうとは思えない。ボールを打てば面白いようによく入る。こういうのを持って生まれたセンスがあると言うのだろう。シェークハンド。チームのもう一人のエース。

この5人が中学3年の夏、並み居る強豪校を押しのけて東京都大会の団体戦で準優勝し、東京代表2校のうちの1校として第三回全国中学卓球大会に出場することになるのだ。

>> つづく