高校生で合唱部に所属している娘が、この春、高校最後の公演でなんとポーランド+リトアニアに10日間かけて回ってきた。その際、学校側はポーランドの受け入れ先機関に、日本の土産として能面を贈ったとのこと。そういえば、能面は外国人に人気のある工芸品のひとつだった。
その話しを聞いて、以前に読んだ芝木好子の『日本の伝統美をたずねて』という本に「能面」があったことを思い出した。雨模様のある日、閉館間際に入った兼六園内の石川県立美術館に陳列されているさまざまな能面をひと通り見終わり、帰ろうとしてふと振り返ると、「一列に並んだそれらの能面がいっせいに眼をあげて私を見ていた … もう帰るのか、と呼びかけた能面に、私はこわいながら惹かれていたのだ」とある。
名工と言われた入江美法という能面師から女面を見せてもらった話がでてくる。「小面、若女、増女、深井などとあって、それぞれわずかに表情も、年齢も違っていて、思わず引き込まれる。小面は肌が白く、唇にほほえみのある清らかな処女の面で、匂いのない華やかさである。それに比べて増女は端正で品格のある、この世のものならぬ美しさをたたえている。」
私たちが能面を直に見る機会などそうはなく、実際私は未だ一度もそうした機会に出会ったことが残念ながらない。能面と言えば、せいぜい般若や翁、何と呼ぶのか分からない女性の面あたりしか知らなかったが、実は基本形で約 60 種、変形を含めると 250 種類ほどもあると初めて知った。
能面は大きく分けると、例えば次のように分類される。教科書などでよく目にする女性の面は「増女(ぞうおんな)」と呼ばれているようだ。これらの面の名前もまた独特で、該当する謡曲の中身と深くかかわっている。例えば、「邯鄲男」については現役の能楽師がこんなことを書いている。
◆女面
若い女性:小面(こおもて)、若女(わかおんな)、孫次郎(まごじろう)、増女(女、天女)、
中年女性:深井(狂う)、曲見(しゃくみ)
老女:姥(うば)、泥眼(嫉妬)、鉄輪女(かなわおんな)
◆男面
少年:童子(どうじ)、慈童(じどう、妖精的)、喝食(かつじき、稚子)、
青年:若男(わかおとこ)、今若(いまわか)、敦盛(あつもり)
武人:平太、中将
老人:翁、皺尉(しわじょう)、悪尉(あくじょう、強くて恐ろしげな老人)、邯鄲男(かんたんおとこ)
能面の素材はヒノキで、昔は 10 年ものあいだ水漬してから使ったそうで、今も 3 年くらいは寝かせておくのが普通だと言う。面の裏側には漆を塗り、表は和紙を張って彩色する。狂言に使う面と比べると薄手に出来ていて、喜怒哀楽を微妙な表情で表現している。
ちょっと古いが、平成15年版の「全国伝統的工芸総覧」を見ると、京都に能面制作会社が 4 社、従事者数 6 人とある。やはり将来が心配になってしまうが、ネットで調べてみると、会社を定年退職した後、能面作りを趣味にしている人たちが案外たくさんいるようで驚いた。しかしこうした人たちは、入江美法のような本物の伝統芸を受け継ぐわけではないので、やはり先行きは厳しいのだろう。
* 能面を作ることを、「能面を打つ」と言います。「打つ」には、「細工して、ものをつくる」という意味があり、谷崎潤一郎の『蓼食う虫』に「古い人形が次第に使用に堪えなくなっているのに、新しい首(かつら)を打ってくれる細工人がいなくなった」の表現がある ― 出典: 学研国語大辞典。